山ガール(丘ガール?)国境を眺める。
今週末に夏時間に切り替わるオーストリアは、少しずつ暖かくなっています。
こんな時期は早速山ガール出動です。国境を見に高いところに登ってみましょう。
ウィーンから東に1時間、国際空港からさらに電車を走らせると、隣の国スロバキアの国境沿いに到着します。国境とは、特に珍しい物ではなく、ヨーロッパの中心にあるオーストリアは、スロバキアを含めた合わせて8つの国と国境を接しています。
駅を降りて、小高い丘に30分ほどで登ると、写真に写る美しいドナウ川が西側に見渡せます。
ウィーン生まれの作曲家ヨハンシュトラウス2世の代表作で、ニューイヤーコンサートの定番に、<美しき青きドナウ>と言う題名のワルツがありますが、青い空が写るドナウ川は、やはり美しい青色のドナウ川だと、私は皆様によくお伝えしてきましたよね。
このドナウ川をGoogleマップで追ってみてください。
ドイツに始まり、ウィーン、スロバキアの首都ブラチスラバ、ハンガリーの首都ブタペストを通ります。私も、時にブラチスラバのガイドさんのドイツ語から日本語への通訳のため、又はハンガリーガイドにバトンタッチする為、バスに乗りブタペストまでお供する事があります。
この広く優雅に流れるドナウ川は、時にクロアチアとセルビア、ルーマニアとウクライナの様に国を川岸のこっちと向こうでへだてる境界線となり、黒海へと流れていきます。
<Bratislava ブラチスラバ> と<Pressburg プレスブルク>
丘の上で西側の方を眺めると、看板があります。<Bratislava ブラチスラバ>方向へ矢印が。
下の写真にはドナウ川が流れていますが、川の手前がオーストリア、反対側はスロバキアです。中央の大きな橋の左上、小高い丘に赤い塔の少し目立つ大きな建物が見えます。隣国スロバキアの街のシンボルマーク<ブラチスラバ城>です。
ブラチスラバは、第一次世界大戦が終結した1918年まで、ハプスブルク家の統治下にありました。このお城も女性統治者マリア・テレジアがバロックに改装し、お気に入りの娘も住んだ場所です。当時のブラチスラバは、<Pressburgプレスブルク>と呼ばれていました。
<Lwiwリヴィウと<Lemberg レンベルク>
この辺りから車で約8時間、790キロほど離れた場所に、当時<Lemberg レンベルク> と呼ばれた都市があります。ちなみに、790キロというと、私の故郷名古屋から福岡ぐらいへの距離です。
レンベルクとは、現在のウクライナの西側の都市<Lwiwリヴィウ>のことです。ウクライナにある日本大使館が最近首都から臨時の連絡所を移した場所でもありますね。
結婚で国を大きくしたハプスブルク家は、18の国や公国を治めていました。
1770年代ロシア帝国とプロイセンと共に行ったポーランド分割によってリヴィウの街は、
ガリツィア・ロドメリア王国の首都としてハプスブルク家の統治下になります。マリア・テレジアが息子と統治していた時代から、ほぼ1918年までです。リヴュウの街を見ると、時にウィーンと雰囲気がとてもよく似た建物があります。
このように陸続きで国境を接しているヨーロッパは、日本人には一目では解りにくい長く複雑な歴史があります。時に親戚の様に国に受け入れ分かち合い、時に領土を争います。
この場所は、1938年ヒットラーが大勢のオーストリア国民の前でドイツによるオーストリア併合を伝えた場所でもあります。オーストリアという国がドイツの州となり、消滅してしまいました。こうして第2次世界大戦にオーストリアは巻き込まれていきますが、ヒットラーが、オーストリア出身だという事も忘れてはいけません。
ハリウッド俳優でもありアメリカの元カリフォルニア州知事でもあるアーノルド・シュワルツェネッガー氏がソーシャルメディアを使いロシア兵に向けメッセージを送った中に、兵士としてドイツ軍に参加した父親が戦後、罪悪感で精神を病んでいた話が出てきました。
シュワルツェネッガー氏は、オーストリアで生まれ育ったオーストリア人です。毎年の様に、オーストリアにも帰国し、テレビのインタビューにオーストリア訛りの独特なドイツ語で答えています。
さて、
国を追われてポーランドなどに避難しているウクライナの方々の様子を皆様もテレビで何度もご覧になったでしょう。
そこから、現在は多くの方が列車を乗り継ぎウィーンの中央駅に到着しています。
最初は小さな子供達や女性の方が多く、荷物の中には動物のカゴも確認できます。ひと安心した様子で、携帯のテレビ電話で周りを映しながらお話しされる方が見られました。毎日約4000人、途絶えることはありません。
現在は、長い移動時間で疲れ切った年配の方々も多数いらっしゃり、表情は不安でいっぱいのように見えます。
とても、心が痛みます。
ウィーン中央駅には赤十字の方や通訳の方々が待機しております。食糧を受け取り、この後、ウィーンで、一休みし、さらにウクライナのコミュニティが大きい、ドイツやフランス、イタリアに8割の方が出発されている様です。ドイツのニュースを見ると、今度はウィーンから到着した方々がテレビに映し出されています。
ウィーン中央駅近くの待機所では、無料で医療関係の方から診察を受けられ、ウクライナのパスポートで、移動の電車チケット(ウィーン市内も含む)は無料です。
ウィーンを避難場所として選んだ方のために、コロナワクチン接種場所であったオーストリアセンターは、難民の方の受付所に早変わりしました。
ウクライナでラジオ局を持っているハプスブルク家の最後の皇帝の孫にあたるカール・ハプスブルク氏も現地に訪れていた様です。
オーストリアには様々な国の方が住み、私が出会った一人一人は、皆さん、とても努力家で、賢く、広い心を持った方ばかりでした。
全ての方が、信頼できる家族や友人の元へ帰る事が出来るよう心より願っております。
そうそう、壊れた登山靴も、買い替えました。<Salewaサレバ>という、オーストリアではとてもポピュラーな南チロルに本社のあるメーカーです。
ちなみに、現在はイタリアに位置し、アルプス山脈ドロミテが大人気の南チロルも第一次世界大戦終結まではハプスブルク家の統治下でした。この続きは又次回。